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2008年3月 のアーカイブ

愛すること

2008年3月31日 コメントする
 
君よ、どうか君らしく生きてくれ。
ぼくは、ぼくらしく生きるから。
 
若いということ。
それだけで、大きな才能だ。大きな可能性だ。
 
だからどうか、忘れないでいてほしい。
 
自分を信じることを。
 
この世界には、絶望など絶対にないことを。
 
人をいとおしむように抱きかかえようとして、
どうか、どうか、君よ、
歌い続けてくれ。君の生を。
 
その歌声が、生命の賛歌となる日まで!
 
 
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あいまいさ

2008年3月30日 コメントする
 
あいまいであること。

いつか、ぼくらは、それを武器にすることができるだろう。
それこそ「力」であると、認識するに至るだろう。

 

「…と思う」ということで、
言い切ったかのように錯覚しているぼくら。
 
相手の目をうかがいながら、
言葉の最後に、自分の態度を明らかにする日本語。
 
白と黒の間に、無限の色彩を抱いているぼくら。
 
季をさらに節に分け、季節を認識するぼくら。
 
春への変わり目を、皮膚で感じ取ることができる、ぼくら。
 
移り変わりを、時空の流れを、流れのまま体感するぼくら。
 
だが、あいまいであることを、本当の力にするためには、
あいまいでないことを、明らかにし、包み込まねばならない。
 
そして何よりも、
拠って立つところが、どんな嵐にも負けないほど頑丈でなければならない。
 
相当の覚悟がいる。
 
だが、それをせずして、未来はない。オソラク…。

 

※今日、ぼくはヨコハマにいる

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切なさ

2008年3月29日 1件のコメント
 
ときおりぼくは、切なさに捕らえられる。
思いもせずに胸がこみ上げ、涙があふれる。
 
その人のためになら、いのちなんか惜しくないのに、
愛する人とは遠く離れて、とても会いたくなるとき、
声が聞きたいのに、電話をすることもなぜかためらわれるとき。
 
チベットの母たちは、自分の子供たちの幸福を願い、
あのヒマラヤを1人越えさせて、
可能性がたとえ1%であっても、自分がそれで殺されても、
子らが「学ぶ」ことで幸せになるように祈る、その思いに接したとき。
 
いのちを賭けて、
それでもなお、つかみ取ろうとするものを、
本当は、誰もが持っている。
 
未来に賭ける、その力を、人間はほんらい持っている。
 
ぼくらは、気づかないだけだ。
 
愛すること。
 
愛しあうこと。
 
いのちを賭けても、その愛を貫くこと。
 
そんな人の行為に触れたとき、
ぼくは泣くのだ。
 
切なくて、とても切なくて…。
 
DSC_3231
チベットの子どもたち
 
 
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見たいもの

2008年3月27日 1件のコメント
 
ずいぶんと、いろんなものを見てきた。
 
絵画や彫刻も、舞台芸術も、超一級に触れるよう努力してきた。
いろんなところにも住んだ。いろんな人々と話しあってきた。

数か国の各地域、日本の全都道府県の各地域の風景も、
その空の色や光も風も、匂いや湿度、空気感まで覚えている。
 
でも、まだまだ見たりない。
 
キューバの現代絵画を見た。
ぼくは、そのとたん、キューバに行きたくなった。
キューバの光の中で、その絵を見たい。
できるなら、書いているところを見たい。
それを観ている人々とともに、感嘆してみたい!
 
イタリアのオペラを見た。
ぼくは、そのとたん、イタリアに行きたくなった。
イタリアの空気の中で、そのオペラを見たい。
それを観る人々とともに、「ブラボー!」って言ってみたい!
 
キリンみたいな、ウマみたいな、オカピを見た。
ぼくは、そのとたん、コンゴに行きたくなった。
コンゴの自然の中で、その動物と出あいたい。
いっぱいの動物たちに囲まれて、ぼくも動物だよな、と感じてみたい!
 
そんなふうに、ぼくは、まだまだ見たいものがある。
それが生まれた場所で、その質感や匂い、生気までも、
ぼくは、体験したい。
 
いつか、行こう。
そうして、せめて地球のことは、少しはわかるようになろう。
 
難しくは考えない。
ただ、出あいたい!
それだけなんだ。
 
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JR新神戸駅や異人館街のほんのすぐ近くに、こんな鬱蒼たる山があることを、
ぼくははじめて体験した。
 
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至上の存在

2008年3月26日 コメントする
 
Q,「国家」とは何か?
A,他国に認証されてはじめて、そう名乗ることが可能な概念である。
 
Q,そもそも「日本」は、「国家」なのか?
A,国際法的な慣習によれば、「国家」の定義としての「主権」「国民」「領土」が一応ある。
 
だが、あなたよ。よく考えてくれたまえ。
 
「国家」とは、きわめて近代的な、西欧的な概念だ。
覇権を争った戦乱のあげく、ヨーロッパの「国」の権力者たちが、
お互いに疲弊することを厭って、編み出したものだ。
 
「お互いの権力を存続するために、お互いが『国家』を名乗ろうじゃないか」と、
「それぞれの権力が及ぶ境界線は、ここらに引こうじゃないか」と、
妥協しあって生まれた産物なのだ。
 
だから、
台湾は、きわめて国家的はあるが、「国家」ではない自治エリア。
コソボ独立は、きわめて国家的なるものの誕生だが、「独立を認めない」という国にとって「国家」ではない。
中国は、現在の「国家」としての「主権」「国民」「領土」を手放さないために、「民族」を封圧する。
未だ「国家」たらざるパレスチナは、イスラエルの侵攻にさらされて、未だ「国境線」を相互に認証できない。
 
「日本国」が、「国家」であることを概念化させたのは、実は明治になって、
西欧諸国との緊迫した関係の中で、突然、それを位置づける必要が生まれてからのことだ。
 
「国家」とは、そのような相対的で、変容し続ける概念だ。
 
「国家」とは、権力者にとっては、重々しい概念だ。
だが、わたしたち民衆にとっては、わたしたちの幸不幸を取り乱すだけのものだ。
 
ぼくたちは、「国家」によって保護されている?
パスポートがなければ、外国には行けない?
 
たしかに、その通りだ。だが、歴史を見たまえ。
 
ポーランドは、一時期、国家としては消滅していた。歯向かうものは迫害され殺された。
琉球王国は、明治初頭に、無理やり「日本国」に組み込まれた。歯向かうものは迫害され殺された。
日本の占領によって、韓半島の人々は、突然「天皇の子」にされたりした。歯向かうものは迫害され殺された。
戦闘が終わったその日から、フランス国民や、ドイツ国民になったりした。歯向かうものは迫害され殺された。
 
そして、いまなお、「国家」の名のもとに、殺戮が、破壊が繰り返されている。
 
もう、たくさんだ。いいかげんに、してほしい。
 
そこで、あなたよ。よく考えてくれたまえ。
 
日本国憲法は、「主権が国民に存することを宣言」している。
主権とは、「至上であること」を意味する。
 
つまり、法的に、でさえ、あなたこそが、至上なる存在なのだ。
 
もっとも尊貴な存在が人間であることの、この宣言は、日本国憲法のみに存するのではない。
 
それは、
第二次世界大戦が勃発し、原爆が使用され、人間があまりにも多量に殺害され、
人類の存亡さえ危惧されはじめ、
「国家」の意味が根本から問われ出した、まさにそのときに、人類が獲得し、
いまも全地球に広まり行こうとしている、人類の英知、そのものなのだ。
 
それを、忘れないでほしい。
 
あなたこそ、崇高な、至上の存在なのだ、ということを。
 
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海は、大地と大地を結ぶ。「国境線」など、人為的なものだ。
鳥たちが、それをいちばんよく知っている(神戸・ハーバーランドにて)
 
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裸身

2008年3月25日 1件のコメント
 
飾ることも、ときにはいい。
身構えることも、ときにはいい。
武装だって、ときには必要だ。
 
けれども、
君よ、
裸身であれ。
 
「おおいなる」誰か、の、言葉を引き合いに出し、
自分の身の貧相さを、覆い隠そうとする大人がいる。
自分も、「おおいなる」もの、に、連なるものだと、吹聴する大人がいる。
自分に問いかけることもなく、自分の成長をおろそかにする大人がいる。
身の安泰を得ようと、おのれの不安を解消しようと、夢想する大人がいる。
 
そのことによって、青年の成長への責任を、人類の未来への責任を、
ぬらりと回避する、薄汚れた大人がいる。
 
彼らを、信じるな。
 
ぼくらは、そうあってはいけない。
 
ぼくは、ぼく自身の言葉を紡ぎ出す。
君は、君自身の言葉を紡ぎ出してくれ。
 
ぼくらは、歴史に学ぶ必要がある。
ぼくらは、偉大な人物の声を聴く必要がある。
 
そして、それらの人類の文化から受け取ったものを燃料に、
自分自身を燃え立たせていく必要がある。
この大地に私は立っていると、際立たせていく必要がある。
 
何ものをも恐れず、威風も堂々と。
 
君よ、
おもねるな。
君よ、
愚かな大人は、反面教師とせよ。
 
君よ、
君自身こそ、信じるに足る存在だ!
 
君よ、
身を飾るものを、極力脱ぎ捨てて、
君自身を、君が
ほんらい持っている、
内なるエネルギーによって、飾りゆこう。
裸身のままに。
 
風は冷たいが、雨は激しいが、
ときに負けることもあるが、
それでも、生きていることを実感する君は、
それらを越えて、未来を目指すだろう。
 
必ず、未来を創造するだろう。
 
SAKURA 2008.3
一斉に花開こうとする蕾は、エネルギーに満ちあふれている
 
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人参の葉

2008年3月24日 1件のコメント
 
切り置いて水に浮かべておいた人参から、
初々しく、葉が伸びてきた。
 
生命は不思議だ。
 
成長という「変容」を繰り返しながら、
次の世代には、「以前」とはどこか異なる姿をして、生まれ出る。
 
その葉は、まだ若く美しく、
恐れを知らぬげに天に向かっている。
 
ぼくは、彼の、次の収穫までのサイクルを、見届けることは困難だが、
その生き様から、
また何かを学ぶことはできるだろう。
 
緑が、この部屋に増えていくことだけで、
ぼくは、
とても感謝している。
 
 
NINJIN
生まれはじめた、人参の葉
 
 
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綾 <A YA>

2008年3月22日 1件のコメント
 
綾<あや>は、文<あや>とも、書く。
 
それは、織り成すことによって、立ち上がる、
気配、色香、輝き、力感、生々しさなどのことだろう。
 
だから、織物も、文章も、同じ文脈で語られる。
 
綾がなければ、美はない。躍動もない。
書く、とは、織る、こと。
それは、同じ、綾成す<文成す>ことだ。
 
かつてぼくは、
戦国時代の武将が着ていた、多くの鎧を間近で見た。
ああ、これぞ萌黄色!
と、その大袖の色彩に、感極まったことがあった。
 
今もきらめき、生まれつづけ、匂い立つ、美。
 
その絹の、見事に細やかな、織り成しは、
それを身に着ける者の、決死の「生の証」だったはずだ。
存在の主張だったはずだ。
 
綾、は、文。
 
生命の限りを尽くさんと織り成したところに生まれる、
その、綾、にこそ、
生命は、
実在を証明し、
高貴に香り、
未来をも生きるのだろう。
 
綾、こそ、実体だ。
 
綾成す、とは、存在が生起する、ことだ。
 
そう、ぼくは、言いたい。
 
 
DSCF1000
タイ・バンコクにある最高級ホテル「ザ・オリエンタル・バンコク」の中庭。
130年の歴史を持ち、作家のサマセット・モームらも宿泊したという。
すべてが計算し尽くされ、織り成されているように、ぼくには思えた
 
 
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オリビア号からの便り

2008年3月21日 コメントする
 
絵はがきの裏面には、
「これから南極へ向かいます」と書かれていた。
 
盲目のフォトグラファー伊藤邦明さん・七重さんからの便り。
七重さんらしい、いさぎよい、忙しげな書きっぷり。

7.Mar.2008 の消印は、このはがきが2週間を経て届いたことを示す。

 

地球一周クルーズのオリビア号は、
すでに、南極を去り、イースター島を離れ、太平洋の真っただ中だろう。
 
不思議な気持ちだ。
 
ご夫妻の「これから」が、
それがすっかり終わったころに、ぼくの手元に届く。
 
過去が、色鮮やかに立ち上がる、
タイムスリップ。
 
息遣いまでもが、よみがえる。
 
言葉には、それが可能なのだ。
 
 
ITO-Picture
ご夫妻からの絵はがき。伊藤邦明さんが撮影した写真だ。
その長い旅のあとが、薄い折れ目や汚れになって残っている
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歓喜と実在

2008年3月20日 1件のコメント
 
そうか、そうだったのか。
 
かつて、
過去ばかり、見ていたぼくが、
虚しく失われていく時だけを見つめて、嘆き苦しんでいたぼくが、
なぜ、
そのような自分に決別し、
見えずとも、未来を選択し、
絶望に抗して、希望を手に入れたのか。
 
それは、どのような、何の、力なのか。
 
 
 
ぼくは、またひとつ、少しだけ謎が解けた。
 
それは、生命が、ほんらい持っていた必然だった。
 
ぼくは、この瞬間に、過去も、未来も、
この腕に、まるごと抱えて、
変転しつづける現在を生きている。
 
この瞬間は、
ぼくが、未来を選び取ったまさにそのときから、
実は、
過去と未来を結ぶ、永遠そのものの、ダイナミズムにあふれていた。
 
ぼくは、
闇を、絶望を、悲しみを、嘆きを、虚しさを、苦しみを、怒りを、
この腕に、いとおしむように抱えて、
それら一切の上に、
光を建設しようとしている。
 
ぼくは、ほんの少しだけ、
生々しく、生き生きと、宇宙を、感じている。
歓喜が、込み上げてくる。
 
そうか!
この歓喜こそ、
宇宙が、あるいは、ぼく自身の生命としての本質が、
ぼくに与えんとした、生きていることの実感なのだ。
 
ぼくは、
ここに、
確かに実在している。
 
DSCF2973
空に溶け入りたい! とでもいいたげな屋根。
神戸・異人館通りにて(2008.3.17)
 
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